Japana Sociala Forumo

ダイオキシン問題小史

第1回特需の不発

原田和明

いわゆる「ダイオキシン問題」は97年頃から「突然に」「騒動」になり最近では話題に上ることも減ってきました。この間にダイオキシン対策と称して各地に大型ゴミ焼却炉が建設されました。建設費用は次世代へ、焼却コストは上昇、ゴミ削減は進まずという状況に、ダイオキシン対策はこれでよかったのかと内省されている方も多いのではないかと思います。

なぜこうなってしまったのか、このような対策しかなかったのか、ダイオキシン騒動の歴史を振り返って考えてみたいと思います。

皆さんご承知の「騒動」の始まりは97年ですが、対策としての焼却炉の開発はそれより10年以上遡ります。80年代半ばからダイオキシン対策を謳った焼却炉に関する特許が出願されていることからわかります。では80年代半ばに何があったのでしょうか?

立川涼・愛媛大教授(当時)がゴミ焼却灰からダイオキシンを検出してプラスチック時代に警鐘をならしたのは83年秋で、厚生省(当時)は早速「廃棄物処理に係るダイオキシン専門家会議」を設置、翌年に摂取量として評価指針値 100pg-TEQ/kg日 を答申、解散後「ごみ処理に係るダイオキシン削減対策委員会」(委員長:平岡正勝=当時京大教授)が排出基準作りに着手します。

平岡委員会では翌85年に排ガス基準として 1250 ng-TEQ/Nm3(現在は新設炉で0.1)を答申して厚生省は安全宣言するとともに 測定装置を当時ほとんどの研究機関で保有していなかった高額機器に限定したり、自治体の調査も厚生省の許可を必要とするなど特定機関以外は事実上ダイオキシンの測定ができなくなりました。

そのうらでプラントメーカーなどが焼却炉改造研究に着手していたのですから、安全宣言はダイオキシン対策確立までの時間稼ぎで、厚生省はいずれダイオキシン規制を考えており、産業界にはダイオキシン特需への期待があったことは容易に想像できます。

90年には産業界の努力によりダイオキシン抑制のための焼却炉の技術開発及びダイオキシンの測定技術の開発にほぼ目処が立ちます。この間「平岡委員会」でも焼却炉改造について議論されています。加藤龍夫・横国大教授(当時)が高額な焼却炉新設ではなく、バグフィルター設置による既存設備の手直しでの対応を提案しますが、拒否されています。排出されるダイオキシンの多くが電気集塵機で再合成されていることがわかってきたことによる提案でした。許容レベルがどこにあるかは別の議論があるにしても、実現していれば新設に比べ遥かに軽い負担で対応できたことでしょう。この時点で新炉建設推進の意思を感じます。

そして厚生省は90年12月18日に「ダイオキシン類発生防止等ガイドライン検討会(会長:平岡正勝=前述)」により、後に「旧ガイドライン」(衛環第260)と呼ばれる焼却炉由来のダイオキシン規制を都道府県に通知しました。これで多くの自治体は焼却炉を新設しなければゴミ処理が困難になったのです。

同年には廃棄物研究財団(89年夏設立)が「廃棄物処理に係わるダイオキシン類測定分析技術登録制度」を設けて測定法を統一化するとともに、多額の加盟料を支払った参加企業しか自治体から測定受注できないという利権化が早くも始まっています。登録の分析会社はプラントメーカーなどの関連企業が多く、焼却炉の開発と分析法の確立は一体のものでした。

こうして、ダイオキシン特需の準備は整っていったのですが、このときは「特需」も「騒動」も起きませんでした。「特需」は新ガイドライン(ダイオキシン類削減プログラム)が公表される97年を待たなければなりませんでした。90年からの「空白の7年」には理由も事情もあったのです。

編集/安濃一樹
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