Japana Sociala Forumo

続ダイオキシン問題小史

ベトナム戦争 枯葉作戦
日本はどこまで手を貸していたか

第3回ダイオキシン・キャンペーン

原田和明

もともと枯葉剤は、植物の成長促進物質の探索研究から見出されたものです。研究の中で、成長促進物質を過剰に投与すると、植物は正常な生理機構を乱されて枯れ死することが1939年にわかりました。米国は太平洋戦争で日本人の食糧を断つために実用化を進めていましたが実戦で使用される前に終戦になったという経緯があります。

ベトナム戦争で米軍を苦しめたのはベトコンによるゲリラ戦でした。ベトコン兵士と補給物資が深い森に隠れて移動するので、米軍は空からの攻撃を有効に行えません。そこで米軍は枯葉剤の戦争利用を企画します。目的はふたつありました。まず森林を破壊して裸にしてしまうこと。もうひとつは、田畑の作物を枯らしてベトコンの食料源を断つことでした。

61年7月から62年4月にかけて、外国もふくむ各地で枯葉剤の野外テストが行われました。その結果、2,4-Dと2,4,5-Tが森林やマングローブ林の破壊に有効なことが見出されたのです。ふたつの薬剤を混ぜたものが枯葉剤となりました。研究は66年までつづきます。米農務省の報告によると、研究で得られた資料は「調査地域のみに限定されることなく、その確実な合理性によって、世界中に当てはめることができる」ほど充実したものでした【1】

一方、1957年に西ドイツから出された報告で、2,4,5-Tの原料である2,4,5-TCPの中に微量のダイオキシンが含まれ、人間にたいして著しい毒性があることが明らかにされました。報告書では、ダイオキシンを含まない純粋な製品では病変が起きないと指摘しています。

65年には、西ドイツからの技術指導により、枯葉剤にダイオキシンが混入するのを大幅に低減しています。そのためか、人畜が被害をうける可能性はまったく省みられませんでした。これは見逃すことができない特徴です。米国議会の記録を見ても、枯葉剤が人畜に及ぼす被害などまったく問題にもなっていません【2】。そして66年以降、米軍はベトナムに大量の枯葉剤を散布します。

ところが68年1月、非営利研究機関であるMRIが、「生態学的被害と慢性毒性データに不備」があると報告します。69年10月、米国立ガン研究所も、「2,4,5-Tに発ガン性はないが、催奇性があり、原因はダイオキシンの可能性」があると報告しました。さらに、枯葉剤を散布した地域の惨状がベトナムの戦地から伝えられアメリカで報道されました。ベトナム住民だけでなく、米帰還兵の発ガン、流産多発などが明らかになっていきます。62年に発表されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の影響もあって【3】、枯葉剤を生産した米ダウケミカル社(ケミカルは化学薬剤の意)に人びとの抗議が集中しました。

市民グループ「人権のための医学委員会」The Medical Committee for Human Rights では、医師や看護師・検査技師・ソーシャルワーカーなど医療に従事する人びとが活動をつづけています。60年代後半にはベトナム戦争に反対して、森も田畑も枯らし尽くす枯葉剤や、人も家も焼き尽くすナパーム弾を生産する化学会社に対し抗議のキャンペーンを仕掛けました。

68年、ダウケミカル社の証券5株を寄付され株主となった医学委員会は、ダウケミカル社の理事会に書簡を送り、人間の殺傷を目的とする兵器の生産は人権に反すると厳しく批判します。そして、ナパーム弾が生産できないように会社定款の書き換えを求め、株主総会で提議して議決に持ち込もうとしました。しかし、他の株主たちがこの提議について知らされることはありませんでした。ダウケミカル社が、株主から求める委任状に医学委員会の提議を記載しなかったからです。

ダウケミカル社は、医学委員会の提議には政治目的があり、州法で認められた株主の権限を逸脱するものだと主張しました。だから提議は無効だということです。医学委員会は抗議しますが、問題を審議したアメリカ証券取引委員会(SEC)はダウケミカル社の主張を認めました。医学委員会は、アメリカ証券取引委員会を告訴します。70年、高等裁判所は医学委員会の訴えを支持して、証券取引委員会に再審議を命じました。判決文が企業の社会的な責任を問うものだったことから、歴史に残る判例と呼ばれるようになります。

ダウケミカル社は弁論で、ナパーム弾の生産がいかに利益率の低いものであるかを明かし、けっして利益のためではないとくり返し述べています。兵器を売って儲けているのではなく、国家に奉仕しているといいたかったのでしょうか。しかし判決は、利益を上げるためでないならダウケミカル社の経営判断は倫理観や政治信条に基づいていることになると断じています。経営陣は、ダウケミカル社の「莫大な資本」を「自らの資産のように」利用して「個人の嗜好や政治信条、あるいは偏った倫理観」を満たすために兵器を生産したと批判されました。

71年、経営陣は株主の委任状に医学委員会の提議を盛り込みます。提議はわずか2%の賛成票を集めただけでした。ここまでは経営陣の計算どおりだったでしょう。しかし、枯葉剤とナパームの生産を続けることはもうできませんでした。世論の力に抗しきれなくなったからです。ダウケミカル社を批判した高等裁判所の判決も、60年代から高まる世論を反映したものでした。

枯葉作戦が中止となったのは同年6月です。ベトナム帰還兵からは訴訟の動きも出てきて、ダウケミカル社は対応を迫られることになりました。枯葉剤やナパーム弾という大量破壊兵器から猛毒ダイオキシンへと問題が移されてゆきます。70年代にダウケミカル社がとったキャンペーンがふたつありました。

1 ダイオキシン毒性研究の推進
2 ダイオキシン「火の仮説」の流布

ダウケミカル社は、枯葉剤そのものではなく、枯葉剤に副産物として含まれていたダイオキシンに毒性があることを明らかにしました。77年から79年、ダウケミカル社研究員のコチバらが「ラットを用いたダイオキシンの毒性研究」を実施しています。研究の成果は、その後ダイオキシンの耐容一日摂取量の世界的な基準になりました。これが日本の基準値の根拠となっています。

77年、ダウケミカル社のミッドランド工場周辺の水系で、魚介類が2,3,7,8-TCDDに汚染されていることが判明します。オランダ、スイスではゴミ焼却炉からダイオキシンが検出されました。78年11月、ダウケミカル社の研究者が、ダウケミカル社ミッドランド工場付近の川魚から検出されたダイオキシンの発生源はミッドランド工場ではないとして、ダイオキシンは燃焼によって生成するという「火の仮説」、つまり燃焼原因説を唱えました。

84年にダウケミカル社は、ミッドランド周辺のダイオキシン調査に300万ドルの支出を決定します。その後、各国でゴミ焼却場からダイオキシンが検出されたとの研究報告が相次ぎ、火の仮説が証明されました。

83年、立川涼・愛媛大教授によるレポート「国内ゴミ焼却炉からダイオキシン検出」も、この延長線上の研究でした。こうして、枯葉剤そのものではなく、枯葉剤に大量に含まれていたダイオキシンの人体影響が国際的に注目されるようになってゆきます。

79年、米国において、ベトナム帰還兵による枯葉剤被害集団訴訟が提起され、84年5月7日に、ダウケミカル社をはじめとする化学会社7社が、1万8000人に対し1億8000万ドルを支払うことで和解しました。

こうしてみると、日本のダイオキシンをめぐる議論は、ダウケミカル社が枯葉剤被害をめぐる集団訴訟を回避するために進めた2つのキャンペーンを色濃く反映しているといえるのではないでしょうか。

アメリカでは、枯葉剤の毒性とは不純物ダイオキシンの毒性だったとして、不可抗力だったといいのがれる。そして枯葉剤工場の危険性を隠し、焼却炉の危険性を強調することによって責任を回避する。

日本では、農薬(実は枯葉剤を製造するときにできる副産物の商品化)の毒性は不純物ダイオキシンの毒性だとする。これは不可抗力だったし、当時は危険性がわかっていなかったと言い逃れる。そして農薬による環境破壊から焼却炉による環境破壊へと話題をいっきに変えて、農薬産業の犯罪行為を隠蔽する。

ダイオキシン問題の背景には、あくまでベトナム戦争の枯葉作戦があります。日本の政府と企業が、アメリカのベトナム侵略に協力し、米軍のために武器をはじめ軍需物資を提供しました。三井系の化学会社は枯葉剤の原料を製造しています。製造過程で生成される副産物は農薬として商品化され、農薬に含まれていたダイオキシンが日本の国土と川と海を汚染しました。

ダイオキシン問題の原点は枯葉作戦です。朝鮮戦争の特需に支えられて、戦後の日本経済は復興し、ベトナム特需を踏み台として、高度経済成長を達成しました。戦後史の陰に踏み込まなければ、ダイオキシン問題の歴史を見きわめることはできません。

【1】中南元『ダイオキシンファミリー』、71頁。

【2】米国議会図書館立法資料部科学政策研究課、枯葉作戦科学報告(1969)、自然第25巻、第2号49頁、第3号41頁。

【3】レイチェル・カーソン著『沈黙の春』1962年。「春が来ても自然は黙りこくっている」と 、DDTなどの農薬や化学物質によって、小鳥がすべていなくるまで環境が汚染されていることを訴えた。本書が出版されて注目を集めると、カーソンは産業界から激しい攻撃を受ける。64年に彼女が亡くなった後も、『沈黙の春』は人びとの支持を得て強い影響力を持ちつづけ、環境運動の大きな流れを生み出した。当時のケネディー政権が環境汚染の調査に乗り出し、70年にニクソン政権が環境保護局を新設したのも、本書の功績だといわれている。72年、DDTは禁止された。

──自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予言におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、ネコマドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音ひとつしない。野原、森、沼地みな黙りこくっている──(青木蘂一訳、第1章より)

──この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている──(第2章より)

編集/安濃一樹
ヤパーナ社会フォーラム
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