Japana Sociala Forumo
シンディの戦い
ひとりの母親が大統領を追いつめた
ダウニングストリート・メモから
キャンプ・ケイシーまで
05年9月9日
キャンプ・ケイシー
最初、ジョージ・ブッシュに会おうと決心したとき、シンディ・シーハンは大統領のいるクロフォードがテキサス州のどこにあるか知らなかった。妹とふたりだけで出かけるつもりでいた。それでも、一年あまりの活動で出会った仲間たちに自分の決意を伝えると、遠くから駆けつける人もいて、シンディのグループはすぐに50人ほどになった。
2005年8月6日、シンディたち一行は車をつらねてクロフォードを目指した。先頭を走る古いバスは、星条旗とおなじ赤青白の三色に塗り分けられ、大きな文字で「弾劾ツアー」と書かれている。クロフォードの近くまでくると、ブッシュの牧場へとつづく道の脇に窪地をみつけて、みんなで仮設のテントを張った。
そこでシンディは声明を発表する。もちろん、牧場で5週間の休暇に入っているブッシュへ向けられたものだった。
──大統領に会って聞きたいことがある。なぜ私の息子を殺したのか。息子はなんのために死んだのか──
前年4月4日、シンディの息子ケイシー・シーハン技術兵はバグダッドで戦死していた。大統領に会えるまで、あるいは逮捕されるまで、決してこの地を離れない。大統領が夏休みを終えてワシントンへ帰るなら、ホワイトハウスの芝生にテントを立てよう。そうしていつまでも待つ。シンディたちは一歩も引かない。
これがキャンプ・ケイシーの始まりだった。いま全米にわきあがる平和運動の起点となったキャンプである。
キャンプの中心となったのは、シンディが結成に関わったゴールド・スター・ファミリー・フォー・ピース(平和のための戦死兵遺族会)やミリタリー・ファミリーズ・スピーク・アウト(声を上げる軍人家族の会)など、息子や娘をイラクで失った母親たちの活動グループだった。それをいくつもの全米団体が支援している。
動き出したメディア
キャンプが始まったころ、まだメディアは女性たちの小さな運動を無視することができた。しかし、シンディたちに連帯する数多くの活動グループがネットを通じて全米に呼びかけると、それまで戦争を支持していた兵士の母親たちが、息子や娘が死んだのはなぜなのかと、シンディと同じ問いかけを胸にかかえて、キャンプ・ケイシーを訪ねてきた。
わずか2週間のうちに、全米の注目が集まるようになった。シンディは早朝から深夜まで電話インタビューに応じている。キャンプに報道陣が取材に来る。米LAタイムズ紙をはじめとする新聞が一面記事としてあつかった。朝のテレビ番組にも夜のニュース番組にも出演を依頼された。シンディの写真が米ピープル誌などの表紙を飾っている。
キャンプを地元で支える団体クロフォード・ピースハウス(クロフォード平和の家)は、これまで資金不足に苦しみ、料金を払えずに電話サービスを切られてしまうほどだった。いまでは全国から寄付金が送られてきて、施設を購入するときに借りたローンを一気に返済できるだけの資金をえた。平和の家では、キャンプの人びとにシャワーや食事を提供している。部屋には壁から壁まで寝具が並べられた。
人びとは、まるで聖地へ向かう巡礼者のようにクロフォードを訪ねてくる。キャンプに滞在する人の数は1000人を超えることがある。キャンプに来ることができなくても、8月17日にはシンディたちを支援する1600もの集会がアメリカ各地で開かれ、ともに平和への祈りを捧げた。
終わりの始まり
イラクではすでに10万人もの命が奪われたという。どれだけの数の人びとが傷ついたのか誰も知らない。シーア派がイランと関係を深めていくにつれて、イラクに親米政権ができる可能性は薄れる。クルド人の勢力は独立を求めているし、スンニ派はシーア派が牛耳る国家など認めることができない。占領軍に対する抵抗運動は激しくなるばかりか、より強靱に組織化されてきた。
米軍の戦死者が2000人に迫ろうとしている。米ニューズウイーク誌の世論調査によると、ブッシュのイラク政策に対する国民の支持率は30%台まで下がった。世論は戦争反対へと大きく傾き、この潮流はもう変わることはないという意見が報じられるようになった。
8月12日、米ワシントンポスト紙に特別記事を書いて、ブッシュに撤退計画を教授したのは、タカ派の中のタカ派と呼ばれるヘンリー・キッシンジャーだった。元国務長官はベトナムからの名誉の撤退を演出した経験がある。そのキッシンジャーでさえ、ベトナム戦争でゲリラ戦が激化してからも、サイゴンなどの都市圏はいまのバグダッドよりはるかに安全だったと指摘している。
これでは共和党のリーダーたちが来年に控える中間選挙の心配をするのも無理はない。メディアが動き出した背景には、ブッシュ政権を支持してきたエリートたちの動揺があった。共和党も民主党も、イラクから撤退するか、このまま留まるか、内部で意見が対立している。これから大統領はワシントンで苦しい対応を迫られることになる。
そしてクロフォードでは怒れる母親が待っている。ブッシュはシンディに会うことができない。シンディの問いかけに答えられないことが自分でもよくわかっているからだ。しかし、このまま面会を避けつづけるなら、世論の批判がつのるばかりだろう。アメリカ兵の戦死が報告されるたびに、大統領が「崇高な使命」のために払われた「犠牲には価値がある」と繰りかえすなら、また幾人もの母親が立ち上がり、クロフォードを目指す。
ブッシュはいままで政治の舞台で、シンディほどの強敵を持ったことがない。これまで民主党の大統領候補といわれた有力議員たちなど取るに足りない。超大国アメリカの大統領がひとりの母親に追いつめられている。
クロフォードからワシントンへ
米ニューヨーク・タイムズ紙は8月21日の社説で、ブッシュ陣営が9・11事件の4周年記念に計画している式典「自由の行進」を批判した。
社説は、「イラク侵略に疑惑を深めつつあるアメリカ市民が求めているものは、(ブッシュが)厳しい批判に答えることであって、華やかな式典などではない」と断じている。また、シンディ・シーハンが全米の注目を集め、世論が反戦へと傾くなかで、式典が9・11事件とイラクを結びつけるように演出されているのは、イメージ操作によって戦争への支持を取り戻そうとするものだと指摘した。
一方、ワシントンポスト紙は、ペンタゴンに広告欄を提供して「自由の行進」をプロモートする計画でいたが、式典が政治色の強いものになることを懸念し、8月15日になって協力を辞退している。
ペンタゴンが主催する「自由の行進」の二週間後に、首都ワシントンで大規模な「平和と正義」集会が計画されている。すでに数多くの活動グループが、集会を主催する団体ユナイテッド・フォー・ピース・アンド・ジャスティス(平和と正義のための団結)と連帯して、ネットを通じ市民に参加を呼びかけ始めた。
シンディたちのグループは、大統領が休暇を終えてワシントンへ帰る8月31日に、3台のバスに分かれて、首都へとゆっくりと北上する。シンディは別行動をとるが、グループは小さな街を訪れて、地方の人びとと報道機関に働きかける。平和集会の当日にワシントンに入り、集会でのスピーチを約束しているシンディと合流する予定だ。
クロフォードに小さなテントが立った8月6日、1600の地で祈りが捧げられた8月17日、そしてワシントン平和集会の9月24日がどのような意味を持つことになるか。それを知るには、私たちが証人となった出来事が歴史として記されるまで、もうしばらく待たなければならない。
DSM運動──真実への道
まだメディアは、シンディのことを「息子を亡くした悲しみを乗りこえて平和を願う母親」として描こうとしている。イラク侵略についてのシンディの批判を伝えきってはいない。活動家となった母親は、ブッシュ政権によるイラク侵略の目的や背景を調べあげている。
その中で、シンディ自身が「決定的だった」と言うものがある。それが、漏洩したイギリス政府の機密文書だった。文書は、2002年7月23日に英首相官邸で開かれた秘密会議の内容を要約したものだ。官邸がロンドンのダウニング街にあることから、文書はダウニングストリート・メモ(DSM)と呼ばれるようになる【1】。メモは、イラク侵略と占領がブッシュとブレアの両政権によって共謀された巨大な犯罪であることを証明している。
2005年5月1日、英サンデータイムズ紙がメモを公開すると、アメリカの活動家たちはメモの重要性を認め、いくつものグループを組織して、「ブッシュ大統領が弾劾に問われる犯罪を行ったか」を調査する独立審議会を設けるよう議会に訴えはじめた。
しかし、リークから1ヶ月たっても、米メディアはメモについて何も報じようとしなかった。6月16日、ジョン・コンヤーズ下院議員(民主党)の呼びかけによって、メモに関する非公式の公聴会が開かれた。このときシンディ・シーハンは証人のひとりとして公聴会に招かれている。
シンディはメモを読んで、疑いが確信に変わったと述べ、アメリカの指導者たちは国民と世界を欺き、「でっち上げた情報と都合の良い事実だけに基づいて、他の主権国家を侵略する違法な戦争に、わたしたちを駆り立てた」と証言した。その結果、息子のケイシーと1700人の兵士が、そして何万もの罪なきイラク市民が殺害されたと訴えている。
非公式とはいえ、数多くの議員が賛同した公聴会だったので、新聞社の取材もあったし、テレビでも中継された。このとき、シンディを始めとする証人たちは明確にブッシュ大統領の弾劾を求めた。
コンヤーズ議員は、DSMにまつわる疑惑についてブッシュ大統領が釈明するよう求める公開書簡をインターネットで公開し、賛同する市民に署名を呼びかけた。公聴会のあとで、ホワイトハウスへ書簡を届けたときには、添えられた署名簿には54万人の名前が連ねられていた(議員は122人)。署名はまだ増え続けている。
証人のひとりジョン・ボニファツは人権問題を専門として活動してきた弁護士である。かれは仲間とともに、「アフター・ダウニングストリート・メモ・オーグ」というグループを組織していた。グループは、ウェブサイトを通じて地域ごとの活動を呼びかけている。この運動を支援するブログの数は700を超えた。秘密会議の3周年にあたる7月23日には、全米各地でDSMに関する300の集会が開かれた。
こうしてDSM運動は、大統領弾劾への長い道のりを歩きはじめた。機密文書の漏洩によって、市民は疑いから確信へと進む大きな一歩を踏み出し、確かな証拠を手に、イラク侵略という巨大な犯罪を告発する戦いに挑む。
ブレア首相の秘密会議
2002年7月23日、ブレア首相が会議に招いたのは、外交・情報・法律を担当するそれぞれの閣僚と英軍のトップである統合参謀本部議長、そして首相の側近が数人だけで、他の大臣たちは会議があることさえ知らされていなかった。議題はアメリカが画策するイラク侵略である。秘密会議に集まったわずか13人の要人たちは事実上の戦時内閣だった。
DSMを始めとして、これまでイギリス政府から漏洩した機密文書は8部ある【2】。照らし合わせて読めば、より正確に内容を把握することができるだろう。
メモの核心となるのは、(米CIAに相当する)イギリス最高の情報機関MI6のディアラブ長官による次の発言である。
──アメリカ政権の態度が明らかに変わってきた。武力行使はもはや避けられないと見なされている。攻撃を正当化するために、テロリズムと大量破壊兵器を同時に[サダム政権と]結びつける。しかし、政策に合わせて情報を作り上げ、事実をねじまげているだけだ──
ブッシュとネオコンたちは、サダムを政権から追いやってイラクを支配するという政策を先に立て、戦争に必要な大義名分を求めていた。
ディアラブ長官は会議に先立ってワシントンを訪れ、テネットCIA長官や米国防省の高官と会談している。ディアラブの報告は実に簡潔だった。イラク侵略を正当化するために、サダムとアルカイダの関係や大量破壊兵器の脅威を利用すること、そしてそれがすべてでっち上げだということ。これをイギリス政府は(おそらく、諜報活動を行っている政府ならどこでも)事実と認めていたことがわかる。
DSMによると、この会議でストロー外相は、イラクを侵略する「理由が薄弱だ」として、次のように説明している。
──サダムは近隣諸国の脅威とはなっていないし、大量破壊兵器を開発するイラクの能力はリビア・北朝鮮・イランよりも劣る──
一方、リケッツ政治顧問のメモ(02年3月22日)にもほぼ同じ報告が見られるが、ここはストロー外相のメモ(02年3月25日)にある分析が興味深い。
──9・11事件がなかったら、イラクに対する武力攻撃をアメリカが計画することはなかったろう。イラクをUBL(オサマ・ビンラディン)やアルカイダと結びつける確かな証拠は出ていない──
国際法違反
イラク侵略には大義名分などなかった。すると、米英両政府は法律上の問題に直面することになる。アメリカは国際刑事裁判所(02年4月に効力発生)の権威を認めていないが、ヨーロッパの諸国は国際法を尊重している。イギリスも例外ではない。ゴールドスミス法務長官の次の証言に注目しよう。
──イラクの政権交代がいかに望ましく思えても、それだけでは軍事攻撃の法的な根拠とはならない──
乾いたユーモアに包んでいるが、長官が意味したことは、ブレア首相も会議に顔をそろえた面々もよく承知していたに違いない。侵略戦争は国際法に反する。もっとも厳しく裁かれる大罪である。正当な理由がないのに、独立国家の政権交代を目的として、侵略戦争を行うことはできない。
ニュルンベルク裁判の判決文には次のように記されている。
──戦争は本質的に邪悪なものである。その影響は、交戦国の間だけに留まらず全世界に及ぶ。よって、侵略戦争を遂行することは、単なる国際犯罪ではなく、究極の国際犯罪となる。あらゆる犯罪を引き起こす侵略戦争は、すべての悪を内包するという点で、他の戦争犯罪と隔絶している──
これを「平和に対する犯罪」と呼び、「人道に対する犯罪」と並ぶ大罪と規定している。ニュルンベルク裁判と東京裁判で、「平和に対する犯罪」を問われた戦犯は全員が絞首刑を宣告された。
秘密会議で、ゴールドスミス長官はイラク侵略の法的な根拠として考えられる事項を三つあげている。
──まず、正当防衛としての攻撃。つぎに、人道介入としての攻撃。そして、UNSC(国連安全保障理事会)の議決にもとづく攻撃。最初のふたつはイラクに当てはまらない。三年前に出された安保理決議1205にもとづいて攻撃することも難しい──
同長官がブレアに送ったメモ(03年3月7日)では、イラクの大量破壊兵器を廃棄するためにはフセインを政権から引き下ろす必要があると実証できるなら武力攻撃も可能かもしれないと指摘したうえで、「ただし、政権交代そのものを武力攻撃の目的とすることはできない」と明言している。
それでもなお、ブレア政権の参戦への決意は動かない。会議の前に参加者に渡された内閣府のメモ/武力行使の条件(02年7月21日)によると、会議に先立つ4月にクロフォードへ招かれたブレアは、ブッシュとの会談で、イラクの政権交代を目指すアメリカの計画に協力することを約束していた。秘密会議に参加した閣僚たちも、ブレアの決断を当然のように承認している。ゴールドスミス長官は、不法行為を憂慮しながらも、攻撃を正当化するために何らかの法的根拠を用意する役目を引き受けた。
もちろん、ブレアの約束は内閣に諮って結ばれたものではない。労働党の議員たちも知らなかった。イギリス市民に対しては、「イラク攻撃については何も決まっていない」と述べていた。
秘密会議はイギリスが軍事攻撃に加わることを前提としている。だから、ブレアは次のように言い切った。
──政治状況が整えば、国民はイラクの政権交代を支持するだろう。そこで、重大な問題がふたつある。まず、この軍事作戦が成功するかどうか。そして、作戦を支障なく進めるために、政府がどのような政治戦略を立てるべきか──
「政治状況が整えば」とは曖昧な表現だが、内閣府のメモを見ると、イギリス首相はアメリカ大統領に戦争の条件を、「諸国の協力をえて連合軍を組織すること。そして、世論を作り上げること」と、わかりやすく説明している。
ここから両国政府による情報操作が始まる。アメリカとイギリスの企業メディアは、政府の発表や政府筋からの話を批判することなくトップ・ニュースとして扱い、政策に都合のいい情報を増幅しながら繰り返し流しつづけた。
イギリスが主導した国連対策
メモによって、新たに判明した事実が二つある。まず、国連での交渉ごとなど我慢できないというアメリカを説得してイギリスが国連対策を講じていたが、その真の目的が明らかになった。
6月の始め、ブレアがワシントンを訪れたときに、記者会見でダウニングストリート・メモに関する質問があった(どうやら記者たちの間では、だれが最初にこの質問をするか賭が行われていたらしい)。ブッシュとブレアは、政策のために事実や情報を作り上げてはいないと疑惑を否定して、侵略に踏み切る前に、英米両政府が国連を通じて外交で解決しようと、あらゆる対策を試みたことを強調した。
確かに、DSMによると、武器査察団を受け入れるかどうかサダムに最後通告を出すよう国連に働きかけるべきだと、ストロー外相が対策を提案している。しかし、それはサダムが拒絶すれば攻撃する理由となることを示唆したものだった。ブレア首相も、「サダムが武器査察官を拒絶すれば政治と法律に関する問題は大きく違ってくる」と指摘している。また、メイヤー駐米大使のメモ(02年3月18日)には、大使が米国防省副長官だったポール・ウォルフォウィッツと会見したときに、サダムが武器査察に関して「対応を間違えるようにしむける必要がある」ことを伝えたという報告がある。
武器査察団を受け入れるようイラクに求めた国連の通告は、戦争を回避するためではなく、サダムに罠を仕掛けるためにイギリスが仕組んだものだった。
開戦前に始まっていた戦争
もう一つの新事実は、漏洩したメモ8部を読むだけでは見えてこない。ダウニングストリート・メモでは、アメリカの戦略には二つの選択があるとして、「準備を整えた上での開戦」と「急激な開戦」をあげている。実際の作戦はこの二つの選択を折衷したものだったが、いまここでいう問題は「急激な開戦」に示されていた。
──(b)急激な開戦。中東にすでに配備されている兵力(3x6000)を使い、空爆を繰り返す。この攻撃を正当化する理由はイラクが提供する。[陸軍が侵攻を始める]開戦まで60日を要するが、空爆はもっと早くから行う。この選択は危険を伴う──
陸軍の配備を待たずに、空軍だけで爆撃を始める。そのとき、「この攻撃を正当化する理由はイラクが提供する」というのは、アメリカがイラクを挑発して、応戦してくるように追い込み、戦争の口実とするという意味だろう。これはイギリスによる国連対策の目的と相通じている。では、どのように挑発するのか。
すぐに空爆を始めることができる「中東にすでに配備されている兵力」とは、イラクの北部と南部に設定された「飛行禁止地区」をパトロールしていた米航空師団を指す。また同メモによると、フーン国防省が、アメリカはサダム政権に圧力をかけるために「攻撃の激化」をすでに始めていると述べている。秘密会議は02年7月だから、「急激な開戦」で想定されていた空爆のずっと前から、すでに何らかの攻撃が続いていて、それを「激化」させたことにならないか。
ここで重大な事実に突き当たる。湾岸戦争のあとに米英がイラクの領空に設定した飛行禁止地区は、どの国連決議をみても何の言及もなく、法的な根拠を持たない。米英の空軍は、フセイン政権が地域の少数グループを迫害しないように監視することを名目として、10年もの間イラクの領空を制圧していた。しかし実際には、年に数万回の出撃を繰り返し、小規模な爆撃などを続けた。これは企業メディアが報道を怠り、国連が黙認していた事実である。
DSMなどの機密文書を入手し、スクープをものにしたマイケル・スミス記者は、5月29日に英サンデータイムズ紙に「攻撃の激化」に関する調査レポートを掲載した【3】。
スミス記者がイギリス自由民主党から新たに入手した文書によると、2000年に英空軍がイラク南部の飛行禁止地区に投下した爆弾の総量は20・5トン(英米あわせて155トン)、01年には25トン(同107トン)だった。しかし、02年5月から国連決議1441が出る11月までの半年で、46トン(同126・1トン)と急増していた。
スミスは、これがメモのいう「攻撃の激化」であり、戦争の大義名分を得るためにイラクの報復攻撃を誘おうとした挑発行為だったと結論している。ただし、当時の連合軍にとっては、攻撃の名分などもう意味を持たなかったかもしれない。
6月1日、米ネーション誌が掲載したジェレミー・シャヒルの記事によると、連合軍が02年9月に行った攻撃は、それ以前の攻撃と異なり大規模なもので、イラク西部にある防空システムを完全に爆撃している【4】。シャヒルは、「イラク軍の防衛力を破壊すること」がペンタゴンの目的であり、この時点で事実上の戦争が始まったと主張する。
米議会が大統領にイラク侵略に必要なすべての権限を与えることを決議する1ヶ月前、バグダッドが炎上し世界が「開戦」を目撃する6ヶ月前のことだった。
フェンスの上の人びと
いつも穏やかな顔をしていても、自分の心は怒りに満ちているとシンディはいう。この怒りを解き放したら、きっと何かを殴りはじめる。それがバラバラに壊れるか死んでしまうまで殴りつづけるだろう。それは恐ろしいことだから、静かに耐えているという。
シンディは心に信じたことをそのまま言葉にする。メディアはライブ放送でないかぎり、彼女の言葉を編集しているようだ。たとえば、大統領や閣僚たちを、戦争犯罪者・ウソつきのろくでなし・おろかもの・ニワトリ(のように臆病な)タカ派ども・卑怯者・戦争商人・邪悪な狂人と呼ぶ。
シンディはメールでこんな忠告を受けたことがある。フェンスを隔てて、向こう側にブッシュを支持する人がいて、こちら側にはブッシュに反対する人がいる。だけどフェンスの上にいる人がたくさんいる。あなたが口汚い言葉でブッシュたちをののしると、フェンスの上の人びとまで気を悪くしてしまう。そうしたら味方になってもらえないし、かえって敵にまわすことになる。
するとシンディは「口汚い」ことばを織りまぜながら、こんなふうに答える【5】。
──いったいなんだってまだフェンスの上にいるの? そんなところに突っ立ってないで、どちら側でもかまわないから落ちてしまいなさい。向こう側に落ちて、ブッシュの戦争に賛成するなら、とっととイラクへ行って国に帰りたがっている兵士の換わりになればいい。だけど、もしこちら側に落ちて、ブッシュに反対するなら、立ち上がって声をあげなさい──
人は善と悪を対比して考えるものだが、善の対極にあるものは、ほんとうは悪ではなくて無関心だということをシンディは言っている。
ブッシュは何と答えるか
追いつめられた大統領が、取り巻きが止めるのを振り切って、この怒れる母親に会いにいったらどうなるだろうか。
もちろんシンディには用意がある。クロフォードへ出発する前日に、ベテランズ・フォー・ピース(平和のための退役軍人会)の年次集会でスピーチをしたときはっきりと表明していた【5】。しかし、マナーを重んじるメディアは、ようやく動き出したとはいえ、まだシンディの決意をありのままに報道することはできないだろう。臆病さと礼儀正しさは見かけがよく似ている。
目の前の大統領に向かって、シンディは「わたしの息子がどんな『崇高な使命』のために死んだのか教えてください」という。もしジョージが、いつもどおり広報チームが書いた台本をなぞって、「息子さんは自由と民主主義を・・・」と言い出そうものならシンディは即座に、ブルシット!──牛糞のように意味のないでまかせだとはねつける。
──本当のことをいいなさい。わたしの息子は石油のために死んだといいなさい。息子はあたなのお友だちを儲けさせるために死んだといいなさい。アメリカに都合のいい平和をガン細胞のように広めるために、帝国主義によって中東を支配するために死んだといいなさい。自由と民主主義のために死んだなんて、絶対にいわせない──
真実から生まれるもの
シンディたちは、右派やネオコンの論客に誹謗されても冷静に対応している。挑発には乗らない。脅迫にも屈しない。戦死した若者たちのために、道沿いに立てていた数百の小さな白い十字架が車に引きつぶされた。キャンプの上を狙って猟銃の弾丸を撃ち込まれた。そのたびに女性たちは結束を強めていった。
グーグルでシンディ・シーハンの名前を検索すると300万ものヒットがある。キャンプを支援し活動をともにするグループが、いくつものブログを立ち上げているので、クロフォードで起きる日々の出来事が手に取るようによくわかる。毎日が驚きと感動の連続である。
キャンプに立ち退き命令が出されると、銃弾を撃ち込んだ男の親戚がその行いを恥じて、ブッシュの牧場の隣にある自分の土地を提供すると申し出た。シンディたちはブッシュが通う教会が見える場所にキャンプを移すことができた。
ここで、女性たちの平和団体コード・ピンクのブログからキャンプの物語を紹介しよう【6】。
キャンプ第6日(8月11日)。夜になってから、シンディたちの運動に反対する団体がやってきた。保安官に促されて、250名を率いるグループはキャンプ・ケイシーと路を隔てた向こう側に集まった。おなじみの文句を書きつけたプラカードを掲げている。グループは抗議の最後を愛国の歌で締めくくろうとした。シンディたちは、対立する人びとの合唱に声を合わせて、同じ歌を歌い上げた。──アメリカに神の祝福あれ。愛する祖国を護りたまえ……。
キャンプ第7日。ピースハウスの近くで軍人の家族を支援するデモ行進があり、それに参加した800人がそのままシンディたちと合流した。キャンプ・ケイシーにたどり着いたときには、800人の一人ひとりがみんな涙で顔を濡らしていた。
キャンプ第8日。ジョディ・エバンスが記したブログには、キャンプ・ケイシーでまたひとつ小さな奇跡が起きたことが記されていた。ブログからの引用で、この報告を終えよう。
シンディは疲れていた。朝の5時半にNBCテレビ「トゥデイ・ショー」から思いがけない電話があり、そのままインタビューに応じた。前日、強い日差しと暑さにやられ、その疲れもまだ残っている。
記者や訪問者の質問に答える朝のセッションが始まった。最初に質問に立ったのはイラクから帰還したばかりの若い兵士だった。彼は丁寧な言葉づかいで「シーハンさん」と呼びかけた。報道陣のカメラに囲まれるなかで、兵士は、彼女の息子が戦死したことに悔やみの言葉を述べてから、自分も何人もの戦友を失ったと告げた。
──戦争で死を避けることはできません。私たちは世界中に自由をもたらそうと戦いつづけています。それは命よりも尊い任務です。私たちの愛する自由のために、どれほど多くの人びとが命を捧げたことでしょう。息子さんの命は、失われた多くの命のなかのたったひとつに過ぎません──
カメラの後ろで私たちは息を呑んだ。それでもシンディは穏やかな顔で若者の言葉を受け入れようとしている。すると兵士は、まわりの沈黙に急かされたように、「いや、息子さんのことでは心が痛みますが」と言い添えた。
そのとき、シンディは若者の肩に手をかけると、ならんで草地へと歩いていった。ふたりだけにしてほしいというシンディの頼みを報道陣は素直に受け入れた。こんな光景は見たことがない。歩いてゆく二人に向かって、さかんにシャッターが切られた。
母が子にするように、シンディは若者の体を自分に引きよせて話し合った。5分ほどの間に、若者の表情が変わっていった。心が動かされている。彼は一歩さがって、イラクでの経験を書き留めたノートの束を手渡した。それからまた二人は抱きしめあったまま、しばらく話していた。
若者を見送ってから、シンディは私たちと報道陣のところへ戻ってきた。私は泣いていた。この女性の力と愛と勇気にふれて何度も泣かされてきた。間に合わせの事務所になっているケイシーのキャンピングカーに向かってシンディといっしょに歩いた。私は自分がどれほど心を打たれたか、その思いのありったけを口にしていた。なだめるようにして、彼女はこう教えてくれた。
──抱き合っているときに、彼が何ていったと思う? お母さんも私と同じ考えなんですって。もしも彼がイラクで戦死していたら、きっと私と同じことをしていたって言われたそうよ。それからね、私のことを「お母さん」って呼んでくれたの──
私は声をあげて泣いた。キャンプ・ケイシーへようこそ。心が大きく開かれる出来事がここでは毎日のように起きています。
……シンディの愛は自分の息子だけに限られたものではない。この愛は真実を求め、世界中の母親と父親を慈しみ、すべての息子と娘たちに捧げられている。
月刊『世界』誌、05年10月号掲載
【1】ダウニングストリート・メモの全訳と解説は [TUP-Bulletin] 速報499号「米英はイラク侵略を8カ月前には共謀していた」に掲載。http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/542
または次のページで。http://japana.org/peace/japana/secret_memo.html
メモ原文は次のページで。http://japana.org/peace/japana/secret_memo_en.html
【2】漏洩メモ群全8部は次のページで。http://japana.org/peace/japana/secret_documents.html
【3】Michael Smith, "RAF bombing raids tried to goad Saddam into war," The Sunday Times - Britain (May 29, 2005). http://www.timesonline.co.uk/article/0,,2087-1632566,00.html
【4】Jeremy Scahill, "The Other Bomb Drops," The Nation (June 1, 2005). http://www.thenation.com/doc.mhtml?i=20050613&s=scahill
【5】05年8月5日、第20回ベテランズ・フォー・ピース大会でのスピーチより。http://www.truthout.org/cindy.shtml
【6】活動団体コードピンクのブログより。http://www.codepinkalert.org/article.php%3fid=451
編集/安濃一樹
mailto:kazuki@japana.org