Japana Sociala Forumo
抄訳/パンタ笛吹(TUPチーム)
2004年4月13日
ファルージャではここ数日間、市全体が米軍により包囲され、水も電気もないまま、一般市民が「集団処罰」を受けているという。なのにマスコミはその惨状をほとんど報道してはいない。実際、ファルージャ市内で取材している記者は、たった二人しかいないのだ。私は現場で起こっているだろう残虐行為をこの目で見て世界中に報らせるめ、ファルージャに行くことにした。
バグダッドの友人たちの助けもあり、私たち世界各国から集まった小さなグループは、医薬品などの人道支援物資を大型バスに積んでファルージャに向かった。いつまた始まるか分からない次の虐殺の前に、負傷者たちをバグダッドの病院に連れ帰ることも、このバスの目的のひとつだった。
いまとなっては、バグダッドを離れるだけで危険きわまりない。米軍はヨルダンまでの道路を封鎖している。ハイウェーでは爆破されたタンクローリーが道路わきでくすぶっていた。また、抵抗勢力の攻撃を受けたばかりなのか、まだ黒煙をあげている米軍の巨大なMー1戦車の横も通り過ぎた。途中、道路わきの小さな家から子供が飛び出し、バスに向かって、「ぼくらは死ぬまでムジャヒディン(聖なる戦士)なんだぞ!」と叫んだ。
最初の米軍検問所では、米兵たちはすでに30時間ぶっつづけでそこにいるとぼやいていた。兵士たちから車内検査をされたあと、バスはファルージャに向かった。そこでも道路わきに、破壊され放置された武装軍用車があった。
ちょうど近隣の村人が、その軍用車からたくさんの箱を略奪し、運んでいるところだった。路上には他に車が走っている様子はなく、それはまさに殺伐とした風景だった。
いったんハイウェーの検問所から離れると、もうそこには米軍の姿はまったく見えなかった。私たちは、ムジャヒディンが米軍から奪還した領域にいるのだ。
バスが農道を通過する間、イラク人とすれ違うたびに彼らは、「ファルージャに行くのか? 神の祝福があらんことを!」と叫びかけてきた。すべてのイラク人が私たちのバスに向かって手を振ったりピースサインを出したりした。
町に近づくにつれ、道路わきの子どもたちがパンや水を、無料で人びとに渡しているのを見た。子どもたちは平たいパンのかたまりを、バスの中の私たちにも気前よく投げてよこした。これらイラク人たちの隣人愛というか親しく接待する気持ちは信じられないほどだった。彼らはみんな私たちを歓迎してくれているようだった。
ファルージャに到着するなり、市内から巨大な爆煙がのぼるのを見た。米軍が大きな爆弾を投下したのだ。「一時停戦」なんて、あったものではない。
ファルージャ市内は、ムジャヒディン戦士たちがそれぞれの街角で待機している以外は、ほとんどもぬけのからだった。ここは、戦闘中の街なのだ。私たちのバスは、イタリアのNGOから託された医薬品を届けるために、町中の小さな医院に向かった。
街でいちばん大きな病院は、そこに出入りしようとする人びとを米兵が狙撃するので使えないし、もう一つの病院は米軍がすでに爆撃したので使用不能だ。いまファルージャで機能しているのは、二つの小さな医院だけだった。それはこの医院と、もうひとつは車の修理工場内に設置した臨時医療所だ。
私がその小汚い医院にいる間に、米兵に撃たれた女性や子どもたちがひっきりなしに運び込まれた。ひとりの女性は首を撃たれ、息をするたびに妙な音をたて、苦しそうにもがいていた。同じく首を撃たれた小さな子供は、医者が必死で命を救おうとする間も、うつろな目を空に向けて、口から何かを吐き続けた。30分たったころ、医者は二人の命をあきらめざるをえなかった。外では狙撃の音が断続的に続いていた。米軍の侵略行為で傷ついた犠牲者が次つぎに運ばれたが、そのほとんどが女性や子どもたちだった。
夕方、モスクのスピーカーから「ムジャヒディンは米軍の軍用車隊のひとつを壊滅させた」との放送があった。すると町中から歓声があがり、お祝いの銃声が道みちにとどろいた。そしてモスクから祈りの詠唱がひびきわたると、この町の人びとの決意と自信がひしひしと伝わってきた。
11歳の小さな少年は、自分の背丈ほどもあるカラシニコフ銃を手に持ち医院のまわりを警護していた。彼は銃撃戦になるのを恐れてはいなかった。米兵はこの11歳の少年と戦うことをどう感じているのだろう? とふと思った。次の日も、ファルージャを去るときも、私はいくつかの少年のグループがムジャヒディンとして戦っているのを見た。
医薬品を医院におろしたあと、私は3人の友人といっしょに、まだ動いている救急車で、路上の負傷者を乗せて連れもどることにした。その救急車のフロントガラスには、すでに三つの弾痕があった。米軍狙撃兵が救急車のイラク人運転手の頭を撃ったのだ。外では爆撃が散発的に爆発し、銃撃の音がしばしば聞こえるなか、今度は私たち外国人が救急車に乗っていれば、米兵も狙撃しないだろう。そうすれば、路上で苦しんでいるイラク人負傷者を助けられると思ったのだ。
夜になると、私たちは地元民の家に泊まった。そこの家主は、自分がここ数日間に撮影したビデオを見せてくれた。次つぎに出てくる、血まみれになって殺されたファルージャ市民たちの映像・・・中でもひどかったのは、お乳を吸っていた赤ちゃんが、母親の胸から引き剥がされ、海兵隊員によって、無惨に殺されてしまった姿だった。
私がファルージャにいる間中、ひっきりなしに聞こえてきたのが米軍が放った遠隔制御無人戦闘機のブーンブーンという音だった。夜、私たちがからっぽの街路を宿泊所まで歩いていくときも、無人戦闘機は私たちの上空を飛びながら、いくつかの照明弾を発射した。
私たちは走って近くの壁に身を隠した。クラスター爆弾を落とされるのではないかと恐れたのだ。地元民の話では、今夕、医院に最後に運びこまれた二人の犠牲者は、クラスター爆弾でやられたそうだ。二人の体は引きちぎられ、恐ろしいくらいに焦げていた。
翌朝、友人の女性は、また救急車に乗って、米軍に狙撃され傷ついた老人を医院まで運び込んだ。この老人は自分の家の前で撃たれて倒れたのだが、その妻と子供は、さらなる狙撃を恐れて外に出られないので、家の中から、外で苦しんでいる老人に向かって泣き叫んでいたという。病院に着いたときには、老人の体はすでに硬直していて、その傷口にハエがたかっていた。
状況はひどくなるばかりだ。米兵からは「掃討作戦」が始まるので待避せよとの警告も受けた。私たちはバスに乗せられるだけのイラク人負傷者を乗せてバグダッドに向かうことにした。帰りの路上では、もっと多くの米軍用車が「自由の戦士」たちに撃破されて、黒煙をあげていた。
私がこのレポートで伝えられることは、ファルージャではマスコミが伝えているような「停戦」など履行されていないということだ。イラク人の女性や子どもが米狙撃兵によって、撃たれ続けているのだ。ファルージャではすでに600人が、アメリカの侵略により殺された。住民は二つのサッカー競技場を集団墓地にして、次つぎと死体を葬っている。
そしていま、米軍は最大スケールの侵攻を再開しようと準備している。4人の米国人警護員(実際は傭兵であり、住民に憎まれている非公式の戦闘員)が殺されたので、その犯人を捕まえるためにという口実で、これらすべての惨劇が起きているのである。
Dahr Jamail, "Americans Slaughtering Civilians in Fallujah," AntiWar.Com, April 13, 2004.
http://www.antiwar.com/orig/jamail.php?articleid=2303
著作権(2004年)
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編集/安濃一樹
ヤパーナ社会フォーラム
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