Japana Sociala Forumo
2003年12月
毒ガスに塗り替えられた人生
ハルピン市内に住む李臣さん(59才)は1974年、河の浚渫工事の仕事中に毒ガスの被害にあった。日本軍敗戦の年に生まれた李臣さんは、当時すこぶる健康な29才の青年だった。3年前に結婚した奥さんと、生まれたばかりの長女とのしあわせな毎日を送っていた。
ある晩、いつものように仲間4人と働いていたとき、突然ガリガリという不審な音がして、船のエンジンに何か絡まって止まった。
──なんだろうと思ってポンプの中をのぞいたんですよ。そしたら、黒い液体が少し漏れていたんです。わたしが引っかかっている物体を取り出して仲間に渡したんです──
次の瞬間、強烈なマスタードの匂いがして、あまりの刺激臭に目が開けられなくなった。その空気を吸ったとたん、そこにいた4人全員が気分が悪くなって、吐き気をもよおし、そのまま仕事ができなくなってしまった。早めに仕事を切り上げた李臣さんは危険を感じていた。
──何か得体の知れない毒物に違いないと直感しました。ただ、まさかそれが日本軍の遺棄した毒ガスだとは夢にも思いませんでした──
家に帰るとすぐに毒ガスの症状が出始めた。毒ガスの入れ物に触った両手にはぶどう大の水泡が沢山できて、まるでぶどうの房のように膨れ上がった。眼からは涙が止まらなくなり、頭にも卵のような大きな水泡ができた。
自分の体の異変を尋常でないと感じた李臣さんは、病院にかけこんだが、医師も「見たことも聞いたこともない症状だ」として、治療法が見つからなかった。その間にも症状はどんどん悪くなり、顔は真っ黒になり、手も変色してしまった。手の指と指の間がくっついて水かきのようなものができた。医者に行って切ってもらっても、すぐにまた同じように水かきができる。寝ていると体中から膿がでて、布団がぐっしょりと濡れるので、夜中に何度も変えなければならなかった。手や口が腐ってひどいにおいがした。トイレにも満足にいけなかった。
妻の呉鳳琴(ウ・フウチン)さんは次のように話す。
──変わり果てた夫の姿を見て、自分の人生の幸せはなんと短いのだろうかと毎日泣きました。原因もわからない。治る当てもない。働けなくなった夫と、生まれたばかりの子供を抱えて、明日からどうやって生きていこうかと途方にくれました──
原因が旧日本軍の毒ガスだとわかったのは、事故から1ヶ月後、北京の国立病院で見てもらったときだ。担当した医師は同じような症状の患者を診たことがあった。原因を聞いた李臣さんは目の前が真っ暗になった。
──毒ガスが原因なら、もう一生直らないとわかったからです。以前、日本軍の毒ガスの被害を記事で見たことがあったからです。これで自分の人生ももうおわったと思いました──
それからの李臣さん一家の生活は悲惨を極めた。入退院を繰り返し、あまり働けなくなった夫の収入は半分以下に減った。代わりに、妻がごみ拾いなどの仕事で働いて生活を支えたが、治療費がかかるために極貧生活になった。85年の春節(旧正月)には家にお金が二元しかなかった。正月なのに餃子さえも食べることができなかった。夫の得体の知れない病気は伝染病だとうわさになり、近所付き合いもままならなくなった。
──娘が小さいころ、道で遊んでいる友達の仲間に入ろうとすると、ほかの子どもたちの母親が飛んできて、自分の子どもをそれぞれ家に連れて帰るんです。あの一家は奇病の一家で、遊ぶと移るかもしれない。一緒に遊んじゃいけないと。うちの娘はいつも仲間はずれでした。私は母親として娘に何もしてやれないのが悔しかったし、自分たちに何の落ち度もないのに、なぜこんな目にあわなければならないのかと悔しくて悔しくてたまりませんでした──
事故にあってから生まれた次女は病気がちで、満足に学校にも行けなかった。
──学校に行かせるどころか、娘に新しい服も買ってやれない。アイスを食べたいとねだられても買ってやれない。自分の被害のせいで家族をそういう目にあわせていることが本当につらくて、つらくて──
生きている自信をなくした李臣さんは、2回、自殺を図っている。何とか、一命を取り留めたが、毎日、死にたい、死にたいと思い続けていた。毒ガス兵器の症状は肉体的だけにとどまらず、精神的にも彼を苦しめたのだ。
厳しい年月をともに過ごしてきた夫婦はとても仲がいい。住んでいる集合住宅の屋上を借りて、小さな花壇を作り、二人で花の手入れにいそしんでいる。子供も大きくなって結婚し、生活を支えてくれているので、かつてのような極貧生活ではない。
──この草は食べられるのよ。貧しかったからいろんなことを知ったわ──
仲良く話す二人だが、次女を生んでから25年以上、二人はセックスをしていない。若かった二人は事故の後も、症状がひと段落すると普通に性生活をはじめた。しかし、セックスのたびにあまりに痛むので病院で見てもらうと、毒ガスは李臣さんの精液を通じて奥さんの子宮をぼろぼろにしていた。それでも若かった二人は、もう一人子供をつくりたいと体を交わしたが、次女が生まれた後は、病気が妻に移るためにセックスをすることをやめた。
──私もね、若かったんですよ。愛している人に愛してもらえない。愛し合いたいのに愛し合えない。そのつらさが、わかりますか? 女としての幸せも毒ガスのせいで、なくなってしまったんですよ──
いまも李臣さんの体には、むごたらしい毒ガスの傷があちこちにある。さすがに最近は年月がたったので、体に水泡や水かきができることはあまりなくなったが、足を悪くしていて歩くのがやっとだ。毎日毎日、心臓や肝臓などの障害のためにおよそ30錠の薬を飲んでいる。事故から30年を経た今も、李臣さんの体は、外側も内側もぼろぼろなのだ。同じ事故にあった仲間も同じような症状で苦しみ、すでに亡くなったものもいる。
今年の8月にチチハルで起きた最新の毒ガス事故の新聞を見ながら、二人はつぶやいた。
──事故にあったこの人たちは、私たちが味わった苦しみをこれからずっと味わうんですよ。貧しくて死にたかったこと、病気がひどくてやりきれなかったこと、愛し合いたくても愛し合えなかったこと。なぜ同じ間違いがいつまでも続くんでしょう? あんな苦しみは私たちだけで十分です。他の誰にも味わってほしくない──
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2004年4月
日本の大量破壊兵器!
3月末まで約1ヶ月間、中国東北部に行ってきました。かなりショックな旅でした。イラクやアフガンで爆弾を拾った子供が死んだという話を時々耳にします。それとまったく同じことが中国で今も起きています。そして、その爆弾の何割かは、マスタード・イペリット・青酸などの毒ガス(旧日本軍の化学兵器=大量破壊兵器)です。フセインが国内で化学兵器を使ったことは盛んに非難されていましたが、ニッポンはそれとまったく同じことを中国でして、そのまま放置し続けてきました。
私が出会った人びと
1ヶ月の滞在で、60人の被害者に会いました。毒ガスの被害は本当に恐ろしいものです。
直接触った人は、体中がダチョウの卵のような大きな水ぶくれではれ上がり、そこから気持ちの悪い黄色い液が流れ続けます。吸い込んだ人は、気管支がやられ、朝も夜も地獄のそこから聞こえるような恐ろしい咳にとりつかれています。事故にあってから17年間ぐっすり寝たことがないひともいます。毒ガスが粘膜すべてを壊すので、眼球やリンパ腺などがただれ、異常な痒さと痛みが続く。
やる気を失わせる効果があり、多くの人が体調不良と憂鬱な精神状態で仕事どころか家事さえもできなくなって寝込んでいます。建物の2階にさえ上がれない人もいます。そして、多くの人が生殖能力を失っています。男性の生殖器はただれ腐る。女性は膣も外陰部も水ぶくれで激しい痛みとかゆみ。20代で事故にあった人も多く、被害者の妻や夫も、性交渉のない状況で生きることを強いられています。
一人ひとりが筆舌に尽くしがたい被害を受け、家族全員が経済的、精神的においつめられたまま人生を送っています。ここに書き切れない多くの悲しみと痛みに毎日であって、とても苦しい旅でした。
どこに毒ガスが捨てられているのかわからない
事故現場の多くはごく普通の街角です。道路や河川の工事中に見つかることが多いです。去年8月のチチハルの事故現場は、どこにでもある団地の一角でした。そこで毒ガスの入ったドラム缶が見つかり、1人が亡くなり、40人以上が感染。中には7歳から16歳の子供も含まれています。
何人もの被害者が私に問いかけました。
──私たちはこれからもこの町で生きていかねばなりません。いったい、どこにどのくらい捨てたのか、とにかくそれを教えてください。平和な時代に、子供や孫たちが同じ被害にあわないようにしたいのです──
こうした被害は、戦後すぐから今に至るまでずっと続いています。中国政府も最低限必要な対応をしてきましたが、何より毒ガス兵器がどこに捨てられたかの情報が日本からほとんど提供されていません。90年代になって一部の化学兵器の処理を日本政府は始めていますが、どこにあるのかもわからないものが多く、難航しています。
娘は砲弾で粉々になって死んだ
日本軍は毒ガス以外に、砲弾も数多く捨ててきました。畑や山などに大量に捨てられています。被害者の多くは子供です。2000年代に入ってからも、その被害は続いています。
ある家では、いとこ同士の3人の子供が家の前で拾った金属で遊んでいたら、それが突然爆発し、そのまま3人は跡形もない肉片になりました。3人の血と肉が家の前の壁にべったりと張り付いたそうです。
ある家の子供は畑で砲弾を拾って遊んでいました。落とした拍子に爆発し、下半身が吹き飛びました。あわてて駆け寄った父親が、何とか助けたいと子供を抱きかかえると、残っていた上半身から内臓がすべて流れおちました。1998年の事です。
現在進行形の戦争被害
元「慰安婦」などの戦争被害者にあった時にも、過去の戦争の傷跡はずっと続くと何度も思いました。でも、この毒ガスや砲弾の被害者は、あえていうなら現在進行形で、新しい被害がおき続けています。時どき、「過去の戦争は自分には関係ない!」という人がいますが、遺棄してきた兵器で今日人びとが傷つき殺されていることも、「私たちに関係ない」といえるでしょうか?
もし、あなたが逆の立場で、突然、住んでいる町内から外国の軍隊が60年以上前に捨てた毒ガスが見つかって、それで取り返しの付かない被害にあったとします。それは、誰の責任でしょうか? 過去のことだから関係ないと、その国の人びとが言ったなら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか? それが、いま私たちが中国にしていることです。
イラクの大量破壊兵器より、日本の大量破壊兵器の処理を!
中国だけでなく、茨城県の神栖町や神奈川県の寒川など日本国内でも、あいついで毒ガスの被害が起きています。イラクの大量破壊兵器を大義に、日本はいま自衛隊をイラクに送っていますが、あるかないかもわからない他人の国の大量破壊兵器のことより、日本が作って捨ててきた大量破壊兵器(毒ガス)を処理すべきではないでしょうか?
出会ってしまった私にできること
誰にも知られずに傷ついている人がたくさんいたことを、ふとしたきっかけで知ってしまった私は自分にできることを考えています。とりあえずVTRをつくること、あと積極的にこの話を人にしていくことを始めます。興味がある方がいらしたら、このメールを転送していただけるとうれしいです。
政府は日本国内の毒ガスしか調査を始めていません(詳細は環境省HP)。海外分も調査をするように、意見を送ってください。また、お近くで中国東北部(旧満州)にゆかりのある元兵士の方や民間人の方がいらして、毒ガスの情報をおもちでしたら、ぜひ私に情報をお寄せください。小さな情報が新しい次の被害を防ぐことになるかもしれません。
取材してきた内容を元に、ドキュメンタリー映画「にがい涙の大地から」を製作中です。興味を持ってくださったら、ご一報ください。上映希望も大歓迎です。完成予定は5月末。完成次第サンプルビデオをお送りします。
海南友子(かな ともこ)
ドキュメンタリー映画作家。東京生まれ。大学卒業後、NHKで報道番組のディレクターとしてニュースやドキュメンタリー番組の制作に従事。現在はフリーのディレクターとしてテレビ番組の制作も手がける。市民グループ「Chance! pono2」のメンバー。インドネシアの元「慰安婦」マルディエムの闘いを取材したドキュメンタリー映画「Mardiyem 彼女の人生に起きたこと──55年ぶりの慰安所への旅」は2001年の作品。
mailto:kanatomoko@hotmail.com
毒ガスと砲弾に関するイベントのお知らせ
毒ガスや砲弾の件で訴訟を起こしている原告が訪日します。
4月27日(火)18:00から
場所/早稲田大学(会場の詳細は以下にお尋ねください)
中国人戦争被害者を支える会/03-5396-6067
編集/安濃一樹
ヤパーナ社会フォーラム
http://japana.org/start.html
mailto:kazuki@japana.org