Japana Sociala Forumo

評論 第回 2001年9月15日

2001年9月11日──なぜ?

2001年9月11日、世界中が人間の悲劇そして壮大なドラマをみた。万人の目が、そこに釘付けとなった。その日の早朝、合衆国において、民間機4機がハイジャックされた。ハイジャック犯は、一機につき4~5人程度であった。彼らはナイフで武装し、うち少なくとも一人は航空機の操縦の能力を持っていた(少なくとも、いったんは飛行していた)。彼らは、飛行機をのっとり、パイロットを排除し(ないしは殺害し)、飛行機を自爆テロへと向かわせた。4機のうち3機は、目標に命中した。すなわちニューヨーク市のワールド・トレード・センター(世界貿易センタービル)の二つのタワーとワシントンのペンタゴン(国防総省)である。

ハイジャック犯は、搭載されていた[ほぼ満量の]燃料と、どのあたりの高度で建物に突撃するべきかについての技術的知識との双方を手にしていたために、二つのタワーを完全に破壊し、ペンタゴンに大きな穴をうがつことに成功した。現時点で、死者は5000人を、おそらく超えると思われ(正確な数字は誰にもわからない)、さらに多くの人々が、負傷し、精神的外傷を負った。合衆国の航空ネットワークと金融機関は、少なくとも事件のあった週の間、ほぼ完全に停止し、莫大な短期的および中期的な経済的損失が生じた。

この攻撃について最初に指摘されることは、その大胆さと驚くべき成功である。数人の人間が、イデオロギーおよび殉教者になる意志によってたがいに結び合わされ、世界のあらゆる諜報組織の羨望の的になること必至の秘密作戦に従ったのである。彼らは、合衆国への入国を手にし、ナイフを持ったまま4機の飛行機に搭乗しおおせた。その4機は、三つの飛行場からほぼ同時に離陸し、しかもそのすべてが大陸横断路線のもので、したがって大量の燃料を搭載していた。彼らは飛行機をのっとり、うち3機を目標に突撃させることに成功した。CIAもFBIも米国の軍事情報組織も、そのほかの何者も、事前にこのことに気づくこともなく、彼らをとめるために、なにもなしえなかったのである。

結果は、いわゆるテロ攻撃の歴史の中で、もっとも破壊的なものとなった。これまで、テロによる死者といえば、400人程度を超えたことはない。あちこちで引き合いに出されている真珠湾攻撃でさえ──その攻撃は国家の軍隊が行ったものである──死者は、ずっと少数であった。さらに、これは、南北戦争(1861ー1865年)以来で初めて、戦争が合衆国本土内で起こったものである。合衆国は、それから多くの大きな戦争──米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争──を行ってきたが(さらに「小さい」戦争も多く行ってきたことはいうまでもない)、そのいずれにおいても、実際の戦闘は、本土の外で行われていた。戦争がニューヨークやワシントンの市街地で起こったという事実は、アメリカ国民にとって、この事件の最大のショックとなった。

さて、大きな問題は「なぜか」ということである。ほとんどすべてのひとが、このテロ攻撃の主犯はウサマ・ビン・ラーディンだと言っている。それは仮定ではあるが、説得力はある。ビン・ラーディン自身が、そのような行為を実行する意図があると以前に宣言しており、おそらく近い将来に、合衆国当局は、この仮定に中身を与えるようななんらかの証拠を提出してくるだろう。とりあえず、この仮定が正しいとしよう。ビン・ラーディンは、このような劇的な仕方で合衆国を攻撃することで、いったい何をなしとげたかったのだろうか。これが、世界中、特に中東でアメリカがなした不正であるとビン・ラーディン(およびその他の人々)が考えていることに対する怒りと復讐の表現であるとみなすことは、まあできよう。[それはそれとして]そのような行為で、彼は合衆国政府に、その政策の変更を説得できるとおもっていたのだろうか。これでそんな反応がえられると考えるほど、ビン・ラーディンは単純素朴な人間だとは、私にはとうてい思えない。ブッシュ大統領は、この攻撃を「戦争行為」だとみなすと言っている。あるいは、ビン・ラーディンも──彼が犯人だとしての話だが──同様に考えているかもしれない。戦争というものは、敵に態度を変更するように説得するために行うものではない。それは敵に態度の変更を強制するものである。

では、ビン・ラーディンになったつもりで推論してみよう。彼は、この攻撃によって、何を示したのであろうか。最も明白なこととして、彼は、合衆国──唯一の超大国にして、世界で最も強力かつ先進の軍事的装備を有する国家──が、この攻撃から、その市民を守ることができなかったということを示した。明らかに、ビン・ラーディンがなそうとしたのは──繰り返すが、彼が実際にこの攻撃の背後の勢力であると仮定しての話である──合衆国が張子の虎だということを示すことである。そして、彼はそのことを、まず第一にアメリカ国民に対して、ついで世界のその他のすべての人々に対して示そうとしたのである。

いまやこのことは、ビン・ラーディンにとってと同様に、合衆国政府にとっても明白なこととなった。さればこその反応である。ブッシュ大統領は、力をもって対応すると言っている。民主・共和両党の有力政治家たちはそろって、ためらいもなく、大統領に対して愛国的な同意を与えている。しかしここで、合衆国政府の視点から推論してみよう。なにがなしうるのか、ということである。

最も容易なのは、テロ攻撃に対する非難および将来の反撃の正当化に対して、外交的支援をとりつけることである。これはまさに、パウエル国務長官が自分のすることとして述べている通りのことであり、そしてそれは実をむすびつつある。NATO(北大西洋条約機構)は、条約第五条にしたがって、合衆国に対する攻撃(今回はそれにあたるとみなされている)は、合衆国からの要請があれば、全加盟国に、その攻撃に対する反撃への軍事的支援の義務を課すものであるとの声明を出している。世界のすべての国の政府──アフガニスタンや北朝鮮も含めて──が、テロ攻撃を非難している。唯一の例外はイラクである。アラブおよびムスリム諸国における大衆の世論は、合衆国をそれほど支持するものではない。しかし合衆国はそれを無視するだろう。

合衆国が外交的支援を得る──おそらくいずれ国連決議も手に入れるだろう──という事実は、ビン・ラーディンの立場からすれば、たいして恐ろしいことではない。またアメリカ国民にとっても、外交的支援などは、たいしたたしにはならないように思われるだろう。彼らの要求はさらに大きくなるだろう。そして、「さらに」といえば、それはほとんど不可避的に、なんらかの軍事的行動ということになろう。しかし、それはどのようなものなのだろうか。合衆国空軍は、誰を爆撃すればよいのだろうか。ビン・ラーディンには、攻撃の手が直接届かないとすると、さらなる証拠のあがりかたによるが、可能な標的はふたつしかない。アフガニスタンおよび/あるいはイラクである。それで、どの程度のダメージが与えられるのだろうか。すでに半ば破壊されているアフガニスタンでは、攻撃はほとんど意味がないように思われる。また合衆国は、多くの理由から──人命の損失をのぞまなかったということも含めて──これまで、イラクへの空爆は控えてきた。合衆国は、なにかしらの爆撃はするかもしれない。それでアメリカ国民に対して、そして世界のその他の人々に対して、合衆国は敵に回すには恐ろしすぎるということを納得させることができるだろうか。私には、できないのではないかと思われる。

事態の実際のところはいえば、合衆国になしうることなど、たいしてありはしないのである。CIAは、何年間も、カストロを暗殺しようと試みてきたが、彼はまだ生きている。合衆国は、ビン・ラーディンをここ数年探し求めてきたが、彼は依然としてその手にはおちていない。いずれ合衆国の諜報部員たちが、彼を殺害することはあるかもしれない。そうなれば、この一件に限っては、事態の進行はペースを落とすかもしれない。また多くの人々には、大きな満足をもたらすこともあろう。しかし、問題はまったくそのまま残ることになろう。

明らかに、なすべきことはといえば、ただ、なにがしか政治的なことだけである。しかし、何をなすべきなのか。この点にいたって、合衆国内の(あるいは、さらに広く汎西洋世界の)あらゆる合意は霧消してしまう。タカ派は、これがシャロン(およびイスラエルの現政権)の正しさの証明だと言っている。「あいつら」はみなテロリストだ。それに対処するには、厳しい報復攻撃もってするしかないというわけである。しかしこれまで、そのやり方は、シャロンにとってあまりうまくいったとはいえない。ならば、どうしてジョージ・W・ブッシュの場合には、もっとうまくいくということになるのだろうか。そしてブッシュは、アメリカ国民にその対価を支払わせることができるのだろうか。そのようなタカ派的なやり方は、安上がりにはすまない。他方でハト派も、この事態が「交渉」でなんとかなると示してみせるのは困難だと感じている。「交渉」といって、いったい誰と交渉するのか。そして、なにを目指して交渉するというのか。

おそらく何が起こっているのかと言えば、この「戦争」──今週の新聞ではそう呼ばれている──は、勝利も敗北もありえないということだろう。それは単に終わらないということだ。個々人の安全の崩壊は、アメリカ国民にとって初めての衝撃であるかもしれないが、それはいまや現実となった。それは、世界の他の多くの地域において、すでに現実だったものである。このようなカオス的な世界システムの揺らぎの背後にある政治的争点は、文明か野蛮かというものではない。あるいは、少なくともわれわれが認識しなければならないのは、いずれの側も自分たちのほうが文明的であり、相手のほうが野蛮であると考えているということである。現状の背後にある争点は、われわれの世界システムの危機であり、それにかわるどのような世界システムの構築を望むのかということをめぐる闘いなのである。これは、その闘いがアメリカ人対アフガン人の間の抗争であるということでもなければ、アメリカ人対ムスリムの抗争ということでも、その他なんでもない。それは、どのような世界の構築を望むのかについての異なるヴィジョンの間の闘争なのである。2001年9月11日は、多くの人々の声に反して、すぐに、長い闘争のなかのマイナーなひとつのエピソードになってしまうように思われる。その闘争は、長期にわたって続き、この星に生きる大半の人々にとっての暗い時代となるであろう。

イマニュエル・ウォーラーステイン

Immanuel Wallerstein, "September 11, 2001 - Why?" Commentary No. 72 (Sept. 15, 2001). http://fbc.binghamton.edu/72en.htm

著作権(2001年)
原文に関するすべての権利はイマニュエル・ウォーラーステインが留保する。

翻訳/山下範久
編集/安濃一樹
ヤパーナ社会フォーラム
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